待つべき理由を語り続けるとき

心の音

旅に出たカップルの話

Facebookである記事がシェアされているのが目にとまった。仕事を辞めて114日間かけて世界15ヶ国、38都市を旅したカップルの話だ。何か感じるものがあったのでシェアしたいと思う。

http://harpersbazaar.jp/lifestyle/culture/kyle-james-wrote-his-girlfriend-after-traveling-the-world-together-170731/(offset)/0

結構長文なので少し要約して紹介しようと思う。時間のある人は記事全文を読んでほしい(記事には本人たちの写真も載っています)。

僕たちは旅に出る前、約3年間交際していたのだが、マンネリに陥っていた。アシュリーは通勤時間が長かったから、朝、顔を合わせることはなかった。夜はカウチに座ってNetflixを観ながら食事をし、翌日の仕事のことを心配していた。だから、僕たちはあえて、将来より今、幸せになる決心をした。それまでの人生で最良の決断だった。

大学を卒業した時、キミは16年間の学校生活終了のお祝いに2人で旅をしたがった。僕たちは就職することになっていたし、一番重要な時だからと僕は言った。
 僕たちはまだ世界を旅するのに十分な時間もお金もないから、少し待とうと、僕はキミにお願いした。キミは僕の言うことを聞いてくれた。

毎年大みそかになると、新年を祝う人々の騒々しい声をバックに僕たちは安いシャンペンで乾杯して優しくキスを交わし、キミは僕に一緒に世界を旅してほしいと言った。…
キミは毎年僕に言ったけれど、毎年僕は、待つべき理由を言った。僕たちにはもっと仕事の経験が必要だと。キミは僕の言うことを聞いてくれた。

1年後僕は新しい仕事をオファーされた。夢に見た仕事だった。そのニュースをもって家に帰った時、キミは負けたような雰囲気に見えた。ショックを受けているのがわかった。キミは微笑んで、僕が頑張ってやっと手にした仕事を祝ううちに、瞳が潤んできた。「さあ、これで僕たちはすばらしいバケーションに行ける!」と、僕はキミに保証した。けれど、僕たち2人には、何年間も話してきたことが、キミがずっと夢見てきたことが、逃げていってしまったことがわかっていたね。

新しい仕事が始まって数週間すると、僕はその仕事が大嫌いになった。思っていたのとは違う仕事で、僕は敗北感を味わいながら帰宅した。ここまでくるのに僕は何年間も頑張ったのに、その仕事は、僕が人生をかけてやりたい仕事ではないとわかったのだ。キミは僕をカウチに座らせ、いい考えがあると言った。

僕は、デンバーでの心地よい暮らしを手放すのが怖かったけど、毎朝、冒険に焦がれるキミの微笑みに目覚めるなら、すべてはうまくいくと僕は確信した。

そして二人は旅を始めたのだった。

待つべき理由を語り続けるとき

僕も旅には思い入れがある。1年かけて自転車で日本一周をやったし、タイやインドには2,3か月単位で放浪もした。カナダには2年近く住んでいた。特にパートナーもいなかったので誰にも反対されることはなかったし、待つべき理由も特になかった。

 僕がこの記事を読んで感じた何かは「今すぐ仕事を辞めて旅に出よう」でも「将来よりも今、幸せになる決心をしよう」でもなかった。僕に見えたのは、“自分が望むことをしたいと思う心”と“待つべき理由を語り続ける心”の2つの面が同じ場所に存在しているイメージだった。おそらくカイルの中にもアシュリーの中にもこの2面性は存在していただろう。ただアシュリーは常に“自分が望むことをしたい”方を選んでいたし、カイルは“待つべき理由を語る”方を選択していた。それぞれが対称の主張をしていたので、アシュリーは“旅に出る”方の、カイルは“待つ”方のイメージとして二人が2面性を象徴するように見えた。

 この記事の最後はハッピーエンディングだけれど、たとえばカイルの仕事が本当に彼がしたい仕事だったとしたら、あるいはアシュリーの方が旅を待つべき理由に値するなにかを見つけてしまったら、流れは大きく変わっていただろう。人生は細かい選択の連続から逃れることはできない。それでも環境がどんなに変わろうとも旅を望む心を捨てなかったアシュリーに僕は尊敬の念を抱かずにはいられない。今の僕にはどんなに環境が変わろうとも旅の心を保ち続けることができるだろうか?もしどこかのタイミングで自分の本当の気持ちを見逃してしまったら、ただ無意識に“待つべき理由を語り続ける”方を選び続けてしまうのではないだろうか?

 10代後半や20代前半の僕はむしろ“自分が望むことをしたいと思う心”を常に無意識のうちに選び取っていたように思う。それに対して全く後悔していないが、それが最良の選択だったのか、あるいは別の可能性をつぶしてしまっていたのかは今でもわからない。そして押し出されるようにして新しい年代に入った。今でも僕は“自分が望むことをしたいと思う心”を選び続けている。けれど昔よりも“楽”な方を選ぶ機会が増えた気もする。僕はアシュリーのように旅の心を失うことなく生きてゆけるだろうか。

自分の本当の気持ちを見失わないために時折立ち止まり、自分に問いたいと思う。

今僕は無意識に“待つべき理由を語り続ける”方を選んではいないだろうか?」と。

コメント

  1. sada より:

    あの頃はなぜあんなにも物事に執着していたのか
    体よりも心の老化の方が早い

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